「家賃を払える目処が立たないとなるとねぇ、可哀想だけど出て行ってもらうしかないんだよ。こっちも慈善事業じゃないんでね」
年配の大家さんの溜め息混じりの声を聞きながら、溜め息をつきたいのはこっちだよぅ、なんて思ってるだなんて、言えるわけない。 「もちろん私も悪魔じゃない。村陰(むらかげ)さんのお宅の現状だって分かってるつもりだ。だからね、すぐにとは言わないよ。そうだね、1ヶ月猶予をあげよう。だからその間に、ね?」 ね?と言われても私、なんて答えたらいいの? どう答えるのが正解? この春から、念願叶って幼なじみの小町(こまち)ちゃんと一緒に、華の女子大生デビューを果たしたばかり。 今年度の学費に関しては、お母さんから「一括納入してあるから大丈夫。花々里(かがり)ちゃんは勉強に専念して」と言われた。 私が幼い頃に父が他界し、母子家庭で母娘ふたり支え合いながら頑張ってきたうちはそんなに裕福ではないから。 てっきり学費も前期、後期に分割して払うんだと思っていた私は、どこにそんなお金が?って思ったけれど、きっと私の進学のために貯めてくれていたのよね?と自分に言い聞かせた。 だからとりあえずそこまではいいとして――その先はどうなるんだろう。 学費が工面できなければ、進級は諦めないといけなくなるよね、きっと。 そもそも――。 大学云々の前に……私、住むところを心配しなきゃいけないっ。 お母さん! 学費より家賃を残しといて欲しかったです!とか思っちゃうのはワガママですか? そう言えばお母さん、学費の話の後、さらに何かを言いたげに私を見つめてきたけれど、あれは……もしかしてお家賃のことを気にしていたのかな? でもそれにしては少し表情が違ったような? あれはもっとこう、なんていうのかな? そう! 一人娘を嫁に出す父親!――母親だけど――みたいな顔? まさかね! 何にしても呑気にみんなと机を並べて勉学に勤しむ、とかどう考えても無理な気がしてきた。 と言うのも――。 ひと月ちょっと前に唯一の肉親で、我が家の大黒柱だったくだんのお母さんが突然倒れて。 意識こそすぐに回復したものの、頭の手術が必要でしばらくは絶対安静だと言われてしまったから。 しかも倒れた際に腕も骨折してしまって――。 とうぶんは仕事もお休みしないといけなさそう。 本人は「大丈夫、すぐ復帰するわよ!」って言い張るけれど、いま無理させたらまた倒れてしまいそうで嫌だ。 なるべく大人しく身体を休めておいて欲しい。 そんなお母さんに、お家賃が支払えなくて住むところがなくなっちゃいそう!とか言えないよ。 うちのアパート、そんなに新しくないけど駅近で立地がいいからかな。 案外お家賃が高額で、驚いたの! 問題が山積みすぎて、何から処理したらいいのか分からない。 どうしよう……。 *** 父親を幼い頃に亡くした我が家の家計は、手に職のあった母親が、女手ひとつで支えてくれていた。 お母さんが倒れて、収入の途絶えた我が家の財政は、覿面坂道を転がるように傾いていって。 わずかにあった蓄えを、私の大学進学のために吐き出した直後だったこともきっと災いしたの。 どこまでもついていない。 今や次の食費の捻出にも困るほどの、立派な火の車になっちゃった。 この辺に食べられる野草とかあるかしら!?とか考えてしまう程度には私、腹ペコです。 そんな中、お母さんだけは入院中で食事の心配をしなくていいの、本当によかった!って思ったの。 弱ってる人は栄養摂らなきゃ元気になれないもの! これは本当、不幸中の幸い。 病院も絶対安静の期間はお母さんのこと、入院させておいてくれると思う。でもそのあとは……? 現状を知ったら絶対お母さん、無理しちゃうよね!? うー、本当ジレンマ! *** もちろん、私だってこの状況を指をくわえて見ていたわけじゃない。 進学してすぐだったけれど、出来得る範囲でバイトにも明け暮れた。 でも――。 女子大生が講義の合間を縫って働ける時間なんてたかが知れていて……。 義務教育じゃないんだから学校自体行く必要はないのかも知れない。でもせっかく入れた大学だし、しかも学費は納入済みって聞いちゃったら。 貧乏性の私としては、通えるうちはちゃんと通いたいって思ったんだもん。 だって授業料って安くないし、もったいないじゃない!? 入院中のお母さんには「へーき、へーき」って嘘をついてなんとか誤魔化してきたけれど……そろそろ限界かも知んない。 ――お母さんが退院してきたら……何て話そう。そう思ってオドオドしたら、「そういや甘いの好きか? さっき職場からもらったシュークリームあんだけど」ってセンターコンソールに置かれていた小さな袋を差し出されて。「俺そんな甘いの好きじゃねぇし、やるよ」 ――どうせ妹に食わせようと思ってたし。 ボソリと付け加えられた言葉は、袋の中からふわりと漂った甘い香りにかき消された。「あ、あのっ、じゃあ、こっ、後部シートでっ」 シュークリームに目がくらんで、恐る恐る譲歩案を提示しながら袋を受け取る。そうしながら、窺い見るように「とっ、ところでこの車、飲食禁止とかじゃない……です、よ、ね?」と付け加えたらクスクス笑われた。 「?」 汚れるからダメ、とか渋い顔をされるなら分かるけれど、笑われるのは意味分かんない。 そう思ってキョトンとした私に、「いや、前に御神本《みきもと》先輩が言ってた通りだなと思ってさ」とか。 ちょっと待って、頼綱《よりつな》、何言ったの!?「別に食ってくれて構わねぇよ。――あと、一応断っとくけど助手席に乗ったからって俺、あんたのことどうこうしようとは思わねぇからな?」 ソワソワしながら後部シートに腰掛けた私に、「さすがにそこまで俺も飢えてねぇわ」って鳥飼《とりかい》さんが吐息を落として。 「飢えてない」のワードだけやけに耳に残った私は、「いま鳥飼さんが腹ペコじゃなくて本当によかったです!」って微笑んだ。 お腹いっぱいだからシュークリームくれたんですものね? ニコニコした私に、鳥飼さんが瞳を見開く。 私はそんな彼を見上げながら、さっき思ったことを口にした。「……助手席は彼女さん専用シートってイメージなので後ろがいいんです」 助手席に座ったらどうこうされるとかは全然思ってなかったですけど……確かに真横で美味しそうなもの食べられたりしたら、「やっぱ俺にも一口」になる可能性ありますもんね。さすが鳥飼さん。先見の明ってやつですね!と心の中で付け加え
そう思って慌てて顔を上げたら「あ!」って思う。 このキラッキラのまぶしいほどの金髪と、嫌味なほど整った顔。 私、知ってる。「とり天の研修医さん!」 隠れ家的料亭『あまみや』で出会った、鳥なんとかという名前の、ピカピカの天ぷら衣みたいな煌びやかな頭をした研修医さんだ! そう言いたかったのに、色々すっ飛ばした結果情報が錯綜してしまった。 私の失礼な発言に、一瞬目を見開いた〝とり天〟さんが、「何だよ、それ」ってつぶやいて。 さすがに怒られる!?って思ったけれど案外穏やかな声音で噛んで含めるみたいに「とり天じゃなくて……鳥飼《とりかい》、な?」って言いながら、私の手を引いて立たせてくれる。 そうだっ。 鳥飼さんだ。鳥飼……確かサザエ? んー。何か違うな。 そもそもそれ、多分女性の名前だし。「鳥飼……ナミヘイさん?」 そう言ってみたものの、4文字はどこか違和感がある。確かサザエみたいに3文字だったのよ。「んー、4文字じゃなかったですね。あ! そうだ! ――カツオさん? マスオさん? あ、タラオさんだったかもっ!」 言いながら恐る恐るすぐ横に立つ長身の彼――多分頼綱より数センチ高い?――を「どれが正解でしたっけ?」と見上げたら、「どれって言われても。どれもこれも掠ってもいねぇんだけど?」って苦笑された。「正解は、鳥飼奏芽《とりかいかなめ》、な?」 言われて、母音のところだけで考えると、「ああえ」になる「サザエ」が1番近かったんだ! いい線まで思い出せてたのに惜しかったな!?と思う。 そんな私を横目に、「で、あんたの名前は花々里《かがり》ちゃん、で合ってんだろ?」とか。 さっきも思ったけど、私、自己紹介した覚えないのに、何で知ってるの! 研修医っていうのは世をしのぶ仮の姿で、本当は興信所の人か何かなんじゃないですかっ⁉︎ そう思って
そのことに居た堪れなくなった私は、右も左も分からないくせに後先考えずに走り出して。 寛道《ひろみち》がハッとしたように「花々里《かがり》!」って呼び止めてきたけれど、全部全部無視してただがむしゃらに全力疾走をした。 もう、今日は大学……行きたくない。 行きたくても、自分が今どこにいるのかも分からない現状では、到底行き着けやしないのだけど――。*** しょぼーんと1人、よく分からない住宅街をトボトボと足を引きずる様にして歩く。 どうして今日に限って私、パンプスなんて履いてきてしまったんだろう。 ヒールが高いわけではないけれど、スニーカーほど歩くのには適していないそれは、闇雲に歩くには向いていなくて、かかとの辺りが擦れてきてちょっぴり痛い。 履き慣れた(と思っていた)靴でも、靴擦れって出来ちゃうんだ、とかどうでもいいことを考える。 と、突然カバンの中の携帯がブルブル震えて。 寛道だったら出ないって思ったけれど、画面に表示されているのは小町ちゃんだった。「もしもし?」 幼なじみの名前を見た途端、気が緩んで泣きそうになる。それを堪えながら電話に応じたら、『花々里ちゃん、今、どこ!?』 と、小町ちゃんにしてはややヒステリックな声が聞こえてくる。「……分かん、ない」 キョロキョロとあたりを見回してみたけれどこんな景色、見たことがない……と思う。 御神本邸《みきもとてい》の辺りほど一軒あたりの敷地は広くなくて、むしろ割と見慣れたサイズ感のある家々が建ち並んでいる。 あっちの方に見えるアパートも、4世帯しか入れないような2階建てで。 自分が母親と住んでいたのもあんな小規模なアパートだったなとふと思って、何だか無性に懐かしくなる。『迷子になってるの?』 ややトーンダウンした声で問いかけられて、小さくうなずいてから、電話じ
昨夜も頼綱《よりつな》と一緒の部屋で寝る寝ないの攻防戦があって……。 私は昨日も何とかっ! 這う這うの体《てい》でお引き取り頂いたの。「あのっ、私たち、結婚してるわけでも……ましてやお付き合いしているわけでもないのでっ」 ――婚姻届も保留してますよね⁉︎ 付け加えるようにそう言ったら、案外すんなり引き下がってくれて。「そうか。花々里《かがり》は順番を重んじるタイプなんだね。承知した。俺もなるべく筋を通すよう配慮しよう」 どこか清々しいぐらいの引き際の良さにホッとしたのも束の間、告げられた言葉にちょっぴりソワソワ。 これできっと主従関係にある限りは添い寝を迫られることはなくなる、んだと……思う。 思うけれど、「なるべく」「配慮しよう」というのが気になるところ。 頼綱って、何を考えているのか読めないところがあるから。気を抜いていたら斜め上からの攻撃がありそうで怖い。 昨夜のやり取りのせいで、せっかく寛道《ひろみち》が頑張ってくれた健闘も虚しく、お母さんのサインをあっさり取り付けてきたりしそうな気さえして。 お母さん、流されやすいもんなぁ。 美味しいものとかちらつかされたら特に危険! そんなこんなを思っていたら、ないって言い切れないところが怖くなる。 頼綱って、いわゆるヤンデレなんじゃない?と思うことが多々あるから油断できない。 そこでふと、昨日の怒涛の着信履歴を思い出してゾクリとする。 *** なんてことを考えながら歩いていたら。「おはよう、花々里。迷わず来れたとか感心じゃん。――……ってオイ! 無視かよ!」 いつの間にか寛道との待ち合わせ場所にたどり着いていた――ばかりか通り過ぎてしまったみたいで、慌てた様子の寛道に腕を掴まれた。 途端、昨日頼綱に、寛道に掴まれた腕のアザに口付けられたのを思い出した私は 「ダメ!」 言って、慌てて寛道の手を振り解いた。 あまりに強く突っぱねてしまって、ハッと
だって今日 寛道《ひろみち》としたことで最大のイベントごとってカボチャのはずだし。 それ邪険にされるとか有り得ないよ。 そう言おうとして、またしてもハッとある事を思い出して、「あ! お母さんのお見舞い!? それも寛道としか行ってないよ?」 せかせかとそう付け加えたら、『それもっ、今はいいんだよ!』と一蹴されてしまった。「じゃあ、色々って……何? さっぱり分かんない!」 言い捨てて電話口で首を傾げたら『お前、あの男に抱きしめられたって……。その後とか……ほ、他には……っ』って何故か歯切れ悪く言われて、ブワリと身体に熱がこもる。 そ、そこ、掘り下げてきます? 自分もいきなり抱きしめてきたくせに? そんなことを思いながら、私はしぶしぶ白状することにした。「は……」『は?』「は、……鼻水はっ! 寛道にしかつけてないからっ!」 頼綱《よりつな》との時は鼻を打ったりしなかったし、涙目にもならなかったから大丈夫! そう言って胸を張ったら『はぁ!? お前、俺に鼻水つけたのかよ!』って……。 だからあの時散々そう言ったじゃない! ムッとして電話に向かってベーっと舌を出したら、見えていないからか、寛道が気持ちを切り替えたみたいに言ってきた。『あー、まぁあれ。そのことは明日また学校行きながら聞くから』 そのことって?と考えてから、もぉ、しつこいなぁと思って、「鼻水は洗濯すれば落ちるでしょう? 許してよぉ」と言ったら、『バカっ! 誰も鼻水のことなんて話してねぇし。俺が気にしてるのはお前があの男と……』って言いかけて。『あー、もうっ、とにかく! 明日また今朝のところで待ってるから。あそこぐらいまでは迷わず出てこいよ? 分かったな!?』 って、一方
頼綱《よりつな》から解放されて、床のカバンを手に取ると、私は半ば逃げるように自室の扉を開ける。 後ろから付いてこられたら拒み切れる自信がなくて、慌てて扉を閉ざそうとしたら「すぐ夕飯だからね」 閉め切る直前、頼綱の声が背中に飛んできて、私はビクッと身体を震わせてから「はいっ」と優等生みたいな返事をして、いそいそと扉を閉ざす。 ひとりになって佇むと、ふわりとどこからともなく頼綱の香りが漂って。 さっき抱き寄せられた時の移り香だと思い至った私は、真っ赤になってその場にヘタり込む。 もぉ、何あれ、何あれ。 いきなり抱きしめてくるとか反則だよっ! 思いながら握りしめたままのカバンにふと視線を落としてから、ハッとしたように荷物をかき分けて底に入れた青いふたの容器を引っ張り出す。「よかった、汁、漏れてない」 ホッとした途端現金にもグゥッとお腹が鳴って、私はすぐに夕飯だと言われたくせに、無意識にタッパーのフタを開けてしまう。 一応1日持ち歩いてしまったし、と思って鼻を近付けてクンクンにおいを嗅いでみて、美味しそうなにおいに「大丈夫そう」ってホッとする。 そのまま半ば条件反射みたいにひとつつまみ上げ……ようとして手洗いがまだだったとハッとして手を止めた。 うー、またお預けかぁ。 そう思って肩を落としたところで、さっきカバンをあさったとき無意識に中から取り出して床に置いた携帯のお知らせランプがバイブ音とともに点滅し始めて。「あ……」 そういえば大学で講義を受けるのにマナーモードにしたまま色々あって、オフにするのを忘れていた。 何だろ? 思ってタッパーにフタをし直してから、おもむろに携帯に手を伸ばす。「寛道《ひろみち》……」 からの着信だった。 何の用かしら? 通話ボタンを押して「もしもし」と応答したら『花々里《かがり》、無事か!?』とか。